婚活

大学のブランドと職業の格付けが合体した価値観もある

大学のブランドと職業の格付けを混ぜ合わせた面白い男性評価を知ってしまった。早稲田大学のような一流大学に入ったのに、教員になる人はそんなに頭のいい人ではないという考え方だ。これ、どうやって突っ込んでいいかわからないが愚直に反論する(笑)

 

早稲田出身の教員は落ちこぼれ?

婚活している群馬出身の31歳の女性がいる。

 

彼女は地元の商業高校から料理の専門学校に入り、その後上京して賄いやレストランの受け付けなどの仕事を経験した。

 

彼女は数年前から婚活を始め、もうお見合いのベテランだそうである。

 

なかなか婚活がまとまらないことで「理想の高い人」だと言われることも多いそうだ。

 

ところが、彼女は自分の婚活に限って絶対にそんなことはないと言い切る。

 

そこで婚活について話を聞いてみた。

 

「私は、婚活としてけして『三高』なんて硬直した理想はもっていません。だって、学歴だけでその人が優秀かどうかわからないでしょう」

 

「なるほど。そりゃそうですね」

 

「この間も、あるねるとんパーティーに行ったんです。そしたら、早稲田大学出身の人が声をかけてきました。職業を聞いたら、中学校の先生だっていうんです。普通、早稲田ぐらいのすごい学校なら、一流商社とかに入りますよね。それが先生なんかになってしまったというのは、やっぱりその人は大学の中でも優秀ではない方の人だったと思うんです」

 

「…………!」

 

「ですから、やっぱり人間は学歴だけでは、本当に優秀な人はわからないと思います」

 

そっちかい(笑)

 

あのなあ。

 

そもそも早稲田大学には教育学部がある。

 

また、大卒で所定の単位を取れば「一流」大学で教員免許を取得することもありうる。

 

それはひとつの進路選択肢であり「落ちこぼれ」とは限るまい。

 

そもそも教育学部が偏差値的価値観でいかなる評価であろうが、教員という価値ある仕事がおとしめられるいわれは全くない。

 

さらに、早稲田なら一流会社当たり前という単純で楽観的なレールの描き方も、面白くてやがて哀しい。

 

そんなに世の中は甘くないぞ。

 

いわゆる指定銘柄の上場企業は、もっと厳密な「エリート」主義や、外部にはわかりにくい学閥主義をとっている。

 

大企業の「エリート」主義とは国立の旧帝大をピラミッドの頂点に私立大にも幾重ものランクが人事上基準づけられているのだ。

 

こうした事実誤認の積み重ねを貫く何よりの問題点は、結局この受付嬢も学歴と職業を絡めたレッテルばりの人物評価をしていることである。

 

なおかつ、その基準や評価が客観的にもデタラメだということである。

 

なぜ、婚活中の彼女のような無知で客観的に奇妙な価値観が生まれてしまうのか。

 

彼女にはキビしいが、婚活では大事な部分なのでちょっと説明をしよう。

 

やっぱり階級社会なのだ

残念ながら、この世の中は階級社会だ。

 

戦前と違って貴族とか何とかの階級がないはずなのに、法律では定められていないわかりにくいピラミッド的階級ができている社会だ。

 

「エリート」中の「エリート」から、そうでない「シモジモ」の人間まで……。

 

そして、人間をわけへだてる仕組みはあらゆる所に逃げられないようにできあがっている。

 

大卒かどうかという学歴の問題で言えば、それは大学受験時の進路選択ではじめて「ふるい」が登場するわけではない。

 

小学校の「お受験」だの中学受験だのを見てほしい。

 

遅くとも中学卒業の時点では「大学入学資格」という意味でおおむね決着が付いてしまう。

 

進学を前提とした普通高校か、そうでない職業高校かに分けられてしまうからだ。これは決定的だ。

 

つまり(大学に行ける)「エリート」候補生と、そうでない「シモジモ」の人間との峻別は、ニキビ面でオナニーを覚えた頃にはもう行われてしまうのである。

 

本人たちの自覚なしにね。

 

婚活するなら、これぐらいは覚えておいて欲しい。

 

しかし、これはおかしいと思わないか。

 

人間の成長には個人差がある。

 

学校の勉強に限っても然りだ。

 

中学の頃成績のいい人もいる。

 

高校三年になってから目覚める人もいる。

 

しかし、進学を前提としていない職業高校に入ってしまったら、その時点で目覚めても大学進学への可能性は普通科に比べてどうしても狭められしまう。

 

つまりこういうことだ。

 

社会の階級的人づくりのレールというのは、個々の能力を伸ばすことを念頭に置いているのではなく、ある時期にいきなり「できる子」と「そうでない子」という「能力」のレッテルばりをして、その後はそれにそった人づくりをしてしまうものなのである。

 

「ある時期」というのは、国や企業の「エリート」作りのスケジュール上決めたもので、子供全体の可能性なんか考慮されていない。

 

だから階級社会というのは、人間個々人の能力を伸ばす最適の場でもなく、そのかけがえのない成長の実状も反映してくれないわけである。

 

もちろん、ベンチャーとかで成功できればいいけど、それはそれでまた別の能力がいる。まあそれは今回は措こう。

 

その人はあなたを望んでくれると思いますか?

さらにいうとこの婚活中の三一歳さんは、「そうでない子」の階級にまわされて人づくりをされてしまった。

 

そういう人間は、もはや社会の仕組みも「エリート」の意味も、そうしたカラクリも知らされないしわからない。

 

なぜなら階級社会の何よりの眼目は、国や企業のために尽くす「エリート」と、まともな理屈をこねずにそれなりに生きる無知蒙昧の「シモジモ」を作り分けるところにあるからだ。

 

ではこういう場合、婚活中の彼女にはどうやってそれを教えたらいいのだろうか。

 

このへんは正直言って難しい問題だ。

 

インターネットの討論でも、女性に限らずこうした奇妙な意見が出て(しかも当人は至って真面目)、対応に悩まされることもしょっちゅうである。

 

私は、そういうときは真っ向から否定こそしないものの、ちいとばかり刺激が強くても考えるよすがを発信している。たとえばこんなふうに……。

 

「それで、あなたが望むその『優秀な人』は、あなたを望んでくれると思いますか?」

 

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