多いか少ないかの判断がつかないのはアンタに生活設計がないからだ
「結婚しようとしている相手の男の年収500万円は、客観的に見て多いか少ないか」そんなこと聞かれても答えに困ってしまう。自分の金銭に対する価値観はどうなのか。どういう結婚生活なのかで答えが出るものであり他人に聞くことではない。
いきなり数字だけ出されても
先日、ネットサーフィンをしていると、日本でいちばん加入者が多いとされるプロバイダの会員サービス用掲示板「教えてください」で、婚活中の女性から、本稿の餌食にしてください、といわんばかりの書き込みがあった。
内容を要約すると、
・結婚しようとしている相手の男の年収500万円は、客観的に見て多いか少ないか
ということを「教えて」というものだった。
多くの参照数とともに、本来はメールによる返答が原則でありながら、その掲示板上に「Re:」が書き込まれていた。
もちろん批判的内容で……。
そりゃそうだよな。
そもそも「客観的」というのは、人心から独立して存在するものに対する反映的表現である。
つまり、「良い・悪い」「好き・嫌い」といった価値判断がおおもとにある場合には、使うべき物差しではないのだ。
「多い・少ない」もそう。
といっても、比較する対象が明確ならわかる。
たとえば、「400万円と500万円ではどちらが多いか」ということなら「客観的」な答えは出るだろう。
たとえ「4」という数字が好きだといっても、「400万」は「500万」より客観的に多くはならない。
それが「客観的」というものだ。
翻って今回の「教えて」はどうか。
金額は価値によって評価が変わる
いきなり「500万円」という数字だけボーンと出して「多いか少ないか教えて」と言ったって、何とも答えようがないだろう。
使う奴は1000万円でも足りないし、使わない人は少ない金額でもやりくりして頑張る。
家族構成や住宅の環境などによっても違う。収入が多くても借金がしこたまあったらそれは右から左に消えていく。
テレビのニュースでは、しばしば「平均年収」なるものが紹介されるが、あれは単純に数字の「平均」に過ぎないのであり、そこから「平均的な豊かさ」を算出することはできない。
個々の事情と価値判断によるものに数値や定式によるレーティングはできないということだ。
そもそも相手の男が500万なら、多かろうが少なかろうがそれで生活するしかない。
ないならないなりの生活をするのが現実というものだ。
「多い or 少ない」という評価が生活の質を変えるわけではなかろう。
500万を、いくら「これは世間的に多いと言われているんだよ」と自分自身に言い聞かせようが、決して1000万円の生活にはならない。
思うだけでなれるんなら、みんな億万長者だっていうの。
もし自分で少ないと実感したなら、さしあたって相手の男に残業やアルバイトでもしてもらうか、もっと給料の高いところに転職を勧めるか、自分も働くか、どうしても我慢ならないのならその相手との結婚は諦めるしかない。
いずれにしても、その判断はひとさまにお伺いを立てる「多い or 少ない」によるものではないことだけは確かだ。
本稿の以前からの読者なら改めて書くまでもないと思うが、こういう「教えて」を書ける人の本心は、相手との結婚それ自体を自己実現としてとらえるのではなく、パートナーの対外的な評価や序列によって自分の「幸福度」を判断しようとしているだけなのだ。
自分の幸福すら自分で判断できない。なんてトホホオンナなのだろう。
「夫婦別姓」が国会上程もされようかという一方で、こういうバカオンナが相変わらずトホホな婚活を書き殴っている。女性解放の道は未だ遠いか。
困ったね。