大学のブランドで「頭のいい人」を判断したら適齢期逃した
大学は有名大学ほど合格者が高い偏差値になるのは仕方ないかもしれない。しかし、その偏差値の高さはあくまでも学力、もっと具体的に述べれば「テスト頭」であり、あらゆるケースで万能な「頭のいい人」ということになるわけではないのだ。
大学のブランドはその人自身の魅力ではない
「私は、やっぱり相手の身長が175センチ以上ないとデートする気にならないですね!」
私が勤務していた結婚相談所で、婚活中のある女性がそう言った。こうした外見についての希望(高身長)をどう見たらいいだろうか。
外見でヒトは判断できない、という留保は客観的にも成り立つ。
ただし、それを本稿で問題にする気はない。何を好みの対象とするかは各人の価値観の問題だからだ。
しかし、学歴で人を評価するというのは、必ずしもそれと同じ次元では語れないだろう。
「三高」に属するステータスの中でも、学歴に対する執着というかその価値観は、非自覚的という意味で一部女性をトホホ者にしている要素としてもっとも深刻なものである。
なぜなら、その求める像もその実態も虚構ぶりがはなはだしいからだ。
「そんなことないわ。○○大学が好きだというのは、面長の顔や高身長が好きだというのと同じで、その人の好みじゃないの?」
もちろんその限りではそうだ。
だが、それは少なくとも「学歴派」の人の目論見を余すところなく語ったものではない。
ルックスにしても高身長にしても、たしかにその人自身のもっている魅力だ。
だが、大学のブランドはお金の紙幣と同じで、その人自身の魅力ではなく、それが生む社会的価値が「魅力」ではないのか。
そこに本稿は着目しているのだ。
高学歴を求めるというのは頭のいい人をパートナーとして望んでいるから
ブランド志向をもう一例ご紹介しよう。
女性金貸しの一人娘で三九歳の相談所会員がいる。
婚活中の彼女は「頭のいい人」「大卒の人」が希望である。
彼女に理由を聞いてみると「高学歴」志向をこう正当化している。
「高学歴を求めるというのは、頭のいい人をパートナーとして望んでいるからよ。四年間ムダ飯食うことで、人間的にも余裕みたいなものもできるでしょう」
なるほど。この限りではケチをつける要素はない。
「頭のいい人」を望むことは理由のいかんを問わず婚活中の彼女の価値観の問題である。
また、大卒がおしなべて「頭のいい人」かどうかはともかくとして、私も四年間のモラトリアムは人生を豊かにするという点で有益だと思う。
だから高等教育は、男女を問わず受けられるなら受けた方がいいと考えている。
だが、 彼女の大学へのこだわり方はそれとは趣が違っていたようだ。
本音は単に「人間的にも余裕」の面を吟味するだけではなかった。
大学のブランドが相手のアイデンティティそのものという見方を相手に押しつけていた。
きわめつけはこれだ。
「あなたは話していると頭がよさそう。でも、どうしてそれで(無名の)○○大なの?」
要するに婚活中の三九歳さんの言う「頭のいい人」というのは、大学のブランドによるレーティングで判断することだった。
つまるところ、有名な大学出身でない人は「頭のいい人」ではいけないということである。
そりゃないだろう。
前出の三女と表現は違っても根っこは同じである。
自分のよってたつ価値観がないから、レッテルに頼らないと人間評価も満足にできないのである。
これは人間として恐ろしく貧しいことだ。イビツなことだ。
そもそも「頭のいい人」というのは、学歴を見ないとわからないものなのだろうか。
そこが間違っているのだ。
私だったらそれは学歴よりも「理性の豊かな人」かどうかをまず考える。
理性とは「知性、感情、意志」がバランスよく構成されるべきものである。
もちろん、知性はより高く、感情はより豊かに、意志はより強くという方向性を求めるものである。
理性の本質的価値とは、模擬試験の英語や数学の偏差値のことではなく、統一性、整合性ある思考で、自然や社会や人間のありようを見ることのできる総合的な力である。
だから、学歴を前提とせずとも、コミュニケーションから自分の眼力で相手を判断できるし、またそうすべきものではないのか。
一応断っておくが、それでもブランド学歴主義を貫きたいというのなら、それは個々の価値観の問題である。
それを否定しているわけではない。
ただし、男性に「より有名な大学出の人」を求めることはいったいどういうことを意味するのか、婚活している 学歴派のトホホオンナのみなさんは、きちんとそれを知っておいて欲しい。知った上で自分の価値観を改めて考えてほしい。
大学のブランドそのものを求めるものといえば、学閥などに代表される現代の日本の歪んだ資本主義社会における「能力主義」の行政や企業の人作り路線のコンセプトである。
つまりオンナたちのブランド学歴志向は、真に「頭のいい人」を求めるものでないばかりか、行政や企業の人作り路線での「エリート」に男性を駆り立てる、何とも酷な要求にもなっているのである。
「エリート」になった人は、過労死や企業戦士に殉じた家庭崩壊に行き着くかもしれない。
高学歴を志向するオンナたちは、それらを認識し覚悟した上で改めて「高学歴」を考えてみてほしい。
それでもいいと思ったら、そこまで男性を追い込んでも構わないと思っている冷血漢であるなら、その時初めて「高学歴」を口にして欲しい。
結婚前は「三高」を求めながら、結婚してから家庭を顧みない「企業戦士」になってしまった連れ合いにブウブウ文句をたれるオンナがいる。
カローシさせる労働者いじめの企業や行政を批判するのではなく、「エリート」路線でロジックとして「企業戦士」になってしまう連れ合いに文句をたれるなんて、ハマチがブリになったことに不満を漏らすようなもんだ。
身勝手な戯言である。相手に「高学歴」をせっつく前に、自分の「理想」に正しい認識と責任をもてといいたい。
そんなアブない要求をつきつけられるオトコの立場も考えてくださいよ。